2024年1月22日月曜日

ニュートラルな状態


#637




トイレでおしっこしながら、あ、今自分はニュートラルだ、と思った。これって、このニュートラルな状態というものをこれまで意識したことはなかったとふと思った。

暑いわけでもなければ寒いわけでもない
空腹なわけでもなければ満腹でもない
痛いわけでもなければ気持ちいいわけでもない
悲しいわけでもなければ楽しいわけでもない

考えてみればそんなニュートラルな状態に人は意識を向けないし、そんなのただ過ぎ去っていく時間のような気がしてなんとなく落ち着かないから空腹でもないのにおやつをつまんだり、悲しいわけでもないのにテレビを見てしまう。

それはまぁいわば実存のさみしさみたいなものなんだろう。
ニュートラルな状態を寂しく感じてしまう。何かしていないと落ち着かない。
その寂しさを紛らわすために人はおやつを食べて太ってしまってニュートラルじゃなくなってしまう。
ニュートラルなのが嫌なのかな。







2024年1月4日木曜日

50年後のカーペンターズ

 正月でうちに遊びに来ていた娘を車で送っていった帰りたまたま付けたラジオがαステーションでカーペンターズの特集をやっていた。考えてみれば僕が彼らの曲を聴いていたのは15歳から16歳頃で今からちょうど50年前だ。音楽は当時の僕の周りの空気まで蘇らせてくれる。
あの頃。ECCが終わったあと彼女と一緒に黒い業務用の自転車を押しながら帰るのが僕の習慣だった。彼女というのはそのECCで同じクラスだった子で背が高くて眼が魅力的な美人ちゃんだった。彼女と学校のことや英語のこと、他愛もない会話をしながら僕はいっぱしのボディガード気取りで彼女を家の近くまで送り届けていたが、彼女は自分の家がどれなのかを決して明かそうとはしなかった。彼女は決まって家の近くまで来るともうここでいいといって去って行った。訝る僕を置き去りにして。
そんな日の一日、暗い商店街を歩きながら彼女は何気なく僕のことを大好きだと言った。それはいわゆる告白口調ではなく話のついでみたいな言い方だったが、僕は他人から、それも女の子から好きと言われたのは初めてだったので結構どぎまぎした。あるとき僕は彼女と別れたあと純粋な好奇心から跡を追って彼女の家を突き止めた。その家は普段の彼女の垢抜けた都会的な言動とは不釣り合いな外観だった。ただ僕自身の家も同じように貧乏だったからそれで彼女に対する印象が変わるようなことはなかった。だからあるとき僕が彼女の家の場所を知ったことを何気なく告げたとき露骨に嫌な顔をされて驚いた。それは僕が今で言うストーカーまがいな行動をしたからだとずっと思っていたが、カーペンターズを聴いていてようやく気が付いた。そうか。彼女は自分の家を僕に見られたくなかったんだ。彼女は自分の家の貧乏を憎んでいて、出来ることなら自分の家から離れたかったのだろう。それもできるだけ遠く。彼女の家が象徴しているその当時の日本の貧乏やみすぼらしさや、その対極としての華やかなアメリカでの生活への憧れ。
本当のところはわからない。だが当時彼女が不思議なほど英会話に力を入れていた理由が僕なりに納得がいったのだ。そんなことがわかるのに50年もかかるなんて、なんと僕は鈍感だろう。まぁ僕はこの人間関係についての鈍感さと一生付き合っていかなければならない定めだと心得てはいるのだが。そんな彼女はその後日本を離れ今はロサンゼルスの大手の化粧品会社で活躍している。





2023年12月7日木曜日

岡田監督のアレ

 阪神タイガースがアレした。
僕はタイガースも含めて特に応援しているチームはないので岡田監督が優勝のことをアレという言葉に置き換えて使っていた理由はわからない。しかしかすかに耳に入ってくる情報では以前優勝しかけたときに彼がそれを口にしたために惜しくも優勝を逃してしまい、それ以後彼は二度と優勝という言葉を使わずアレと称してきたと。
以下野球のことをろくに知りもしないで勝手なことを書くのをお許しください。とりわけ阪神タイガースには熱烈なファンが多いのでアレなんですが。

想像するに監督というのはひょっとすると優勝ということをほとんど意識せずに仕事しているのではないか。もちろん優勝するに越したことはない。しかし監督としての仕事は選手の一人一人が理想的に仕事出来ること、そして彼らが最も力が発揮できるように調整しマネージメントすること、いやもちろん試合の時には勝つために全知全能で采配を振るうのだが、その場合も勝つためというよりもいかに点を取るか、いかに点を取られずにすむか、試合の流れの中で最も理想とすべき采配は何かに集中しているわけで、勝ちはその結果として付いてくる。優勝も結果として付いてくるものであって目標とすべきものではない。ただしそう言ってしまうとナンだ、監督には優勝に対する貪欲さや意気込みがないのかというふうに誤解される恐れがあるのであえて言わないが。

勝負師は勝ちを意識すると勘が狂う。だから周りからとやかく言われるとうるさいし、かといって何も言わないというわけにはいかない。で、アレが出てくる。
しかしアレというのは結構意味深で、コレでもソレでもないというのが面白い。「コレ」では近すぎる。これでは「優勝」と言うのとあまり変わらない。「ソレ」でもまだ近い。「アレ」だといい「遠さ加減」だ。さらに言えばアレという言葉には「厄介者」感がある。我々がアレという代名詞を使うのはどちらかというとちょっと遠ざけておきたいものに使う。例えば、
「アレが来たよ。とうとう」
「アレのせいでこんなことになった」
「アレとアレがああなっちゃったよ」
「アレさえなけりゃな・・・。」
「アレが来ないの・・・。」
「今日はアレの日だからダメ」
監督にとっても優勝というのは敬して遠ざけておきたいもの、やっかいな古女房、心の借金みたいなものだから、アレという表現はパイン飴のようにしっくりきたことだろう。

この、ちょっとやっかいなものをアレと表現するのは僕らの日常でも力を発揮する。
僕は最近はあまり車を運転しなくなったしACC(アダプティブクルーズコントロール)のおかげで勝手に車が前に進むのでアクセルを踏まなくて済むようになったが、ACCがなかったころは自分でアクセルとブレーキをコントロールするのでどうしても、少なくとも僕のような負けず嫌いな人間はついつい荒くれた運転をしてしまう。ACCを使わない場面では今でもふとした拍子に「荒くれココロ」が目を覚ます。そのときに「あ、今アレがやってきた」と考える。厄介者としての荒くれココロをアレと表現すると、むしろ走行車線をゆっくり気味に走ることで「反アレ」を導入し「アレ」を打ち消してくれる。これがまぁ結構有効で、最近はこの「アレ」と「反アレ」をよく使っている。
いやまぁどうでもいい話なんですが。






2023年10月10日火曜日

空から降ってくる言葉


 鈴木大拙氏がアメリカ東部の大学で講演したときのこと。
冒頭大拙氏は旧約聖書の話を始められた。アダムとイブが蛇にそそのかされてリンゴを食べたために神の怒りを買って楽園を追放され、もはや永遠に楽園に戻れなくなってしまった。
大拙氏がそこまで話したときある学生がすかさず挙手して彼に尋ねた。それは切実な叫びにも似た質問だった。「先生!では私達はいったいどうすればいいんでしょう!」
それに対し間髪をいれず大拙氏が答えた言葉に会場はどよめいた。
彼はこう答えたのだ。
「Have another bite.」(もう一口囓りなさい)

・・・・・・・・

なんという言葉だろう。
禅の本質を理解しているつもりでも、逆立ちしたって出てこない言葉だ。そして、しかもなおこれほど禅の本質を貫いている言葉もないだろう。ロジックを超えた言葉と言ってもいい。そう。ロジックの世界からは永遠に生まれない言葉なのだ、これは。そしてこの一見チェスタトンにも似た逆説からは青天井の笑いが、健やかな諧謔が轟いている。

さてではこの公案は何を意味しているのか。
学生の質問にロジックで答えるなら
「Spit out the apple.」(リンゴを吐き出せ)となる。
リンゴを囓って楽園を追放されたのだから、食べたリンゴを吐き出せばいいのだ。
だがリンゴはすでに血肉化してもはや吐き出すことは出来まい。
だからロジックの世界では我々には絶望しかなくて、「先生!では私達はいったいどうすればいいんでしょう!」という切実な問いは文字通り切実な悲しみに終わる。

私なりの解釈を述べさせてもらえばリンゴとは知恵=言葉の暗喩である。それまで神の司る世界を生きていたヒトは言葉を手に入れたことで各人が自分を主人公とする物語世界を生き始めた。ヒトは自らが作った物語の中で幸せと不幸せを紡ぎ出す。その、自らの物語から抜け出すことが出来ないために絶望が生まれるのだ。この絶望の物語からロジックで抜け出すためにはリンゴを吐き出せばいいが、それは血肉化したリンゴ=言語による物語世界を生きている私たちにとって死に等しい。いや実際には死にはしないのだがそれは絶望よりもさらに困難な不可能事だ。その物語世界は自らを縛る絶望であると同時に自らを存立させている根拠のようなものだからだ。

ではこの問いに対し禅はなんと答えるか?
あなたはリンゴを食べて苦しんでいるが実はリンゴを食べる前のあなたがもうすでに今ここにあるというのが禅の立場だ。そうしてさらに大拙氏の答えはなんともユニークだ。
彼は「もう一度囓れ」と言う。
囓るとどうなるか。知恵の実を囓ればさらに賢くなるだろう。自分を含むこの世界が、実は自分が作ったものだという視点に目覚めよ、と彼は言っているのだ。










2023年10月5日木曜日

デフォルトの顔

自分では好悪の感情なくニュートラルな心持ちでいるのに、さて鏡で自分の顔を見ると鍾馗様が苦虫を噛み潰したような、あたかも世界全体を憎んでいるような顔をしていることに驚く。

妻には以前から折に触れて「もっとにこやかな顔をしたら?」と言われていた。私としてもにこやかな顔をすることにやぶさかではないがワケもなくニコニコするのは何だかバカみたいだ。

しかしコロナでマスクを常用するようになったのをきっかけにそのニコニコ作戦を始めたところ口角を上げていてもひとからは見えないし自然と目を大きく見開くので周りからはすこぶる好評である。

いいぞいいぞと思って続けているうちにふと気が付いた。マスクを取ってニコニコした顔を自分で眺めてみるとその表情が今の自分の心持ちにぴったりなのだ。

あれ?感情をリアルタイムで発露しているのが今の自分の表情だと思っていたが違うのか?作った笑顔の方がニュートラルなのか?

でもそれはひょっとすると仕事のストレスが長い年月をかけて私の顔に刻み込んできた表情のなれの果てであって、それが退職でストレスから解放された今の自分の心ばえとのギャップを生んでいるのかもしれない。

まぁこの心と表情のギャップの本当の理由はわからないが、そろそろニコニコをデフォルトにしてみるか?でもふと気が付くともとの鍾馗様に戻っている。デフォルトを変えるのは難しい。





2022年2月3日木曜日

今をすこやかに。


 明日のことを考えると暗い未来しか浮かんでこない
でも暗澹たる思いで今日を腐らせても誰も得をしない
今をすこやかに。
そう言葉にすればこころは軽くなる



2021年10月17日日曜日

10月16日

flowkeyを延長するかどうか。ほとんど使っていないのにサブスクリプションの12,800円はイタい。それで2ヶ月ぶりにピアノを弾いた。ネコふんじゃった。小学校のときにクラスの女の子たちが我先に弾いていたのを思い出す。しかも爆速で。